俺29男だよ 全章
1 巡り合わせ
息子の春樹が癌かもしれないと知っても、由乃は誰にも相談しなかった。だが、入院費用がないのでしかたなく、両親へ借金の申し入れにいった。
「春樹が癌とはな・・・。だが、あれも親不孝な奴だし、このままほっといて少しは苦しんだほうがいいんじゃないか」
そういわれては返す言葉もない由乃だった。
「ま、わしにしたら孫だからなんとかしたいとは思うが、ああいう道楽息子には、もう見切りをつけてもいいんじゃないか。由乃だって、たいがいあれには泣かされてきたし」
「お父さんの言いたいことは分かるけど・・・。その上で無心にきた私が甘かったようね。確かに春樹は半端者で端にも棒にもかからない。それでも私のお腹を痛めた子供なの。今日のことは忘れて」
医者から癌であることを聞かされていない春樹は、腹痛が治まると、相変わらず酒と女に日々を費やしていた。その合間に気が向けば仕事にいくといった調子だった。
「春樹。あんた明日は29才の誕生日よね」
「それがどうかしたのかよ」
「人生なんてあっという間よ。これからのこと少しは考えてる?結婚して子供ができたらお金だってかかるし、今みたいなことじゃやっていけないわよ」
「そんなこたぁ分かってるって。土曜に金はいるから、それまで2万貸しくれよ」
「あたしの全財産が20万円ある。その半分持って行けばいい。それで遊んでくればいい。でも、その後は入院よ」
「誰が入院なんだよ」
「あんたに決まってんでしょ。癌は早めにとったほうがいい。それぐらい知ってるでしょ、あんただって」
春樹は自分の病気が癌ではないかと薄々感じてはいたが、医者が胆嚢炎だというので安心していたのだった。
「お医者さんには私が口止めしといたからあんたは知らなかっただろうけど、ほっとけば肝臓や膵臓に転移して、早ければ半年で命を落とすことになるって」
家を出る際に涙を浮かべながら金を手渡してくれた由乃のことなど忘れたかのように、春樹はキャバクラで美紗緒という女を口説いていた。
「しょうがないな。明日も同伴してくれるならいいよ」
このところ金さえあれば美紗緒に入れあげている春樹は、ついに彼女をホテルに連れ込んだ。
「もう少ししたら人に会わないとなんないから、早くやって」
これまで何十人という女と肌を合わせてきた春樹だが、そんなことをいって風呂にも入らずさっさと服を脱いでベッドに行く女は初めてだった。
「ふざけんじゃねーぞ。てめーみてーな女。誰がやるかってんだ!」
そういって1人でさっさとホテルを出た春樹は、虚しさが込み上げてきて息ができないほど苦しくなった。と同時に彼の脇腹を激痛が襲い、自動販売機にもたれかかるようにして痛みが治まるのを待つしかないようだった。
「酔ってるの?大丈夫?」
口もきけないほどの痛みで額に汗をかいている春樹の様子に、長田由紀は救急車を呼ぼうかと聞いた。
「み、水だ」
由紀は自分の飲みかけのペットボトルをバッグから急いで取り出し、キャップを開けて春樹の口に持っていった。
それを飲み下すと胃だかなんだかが動き、春樹は唸るようにしてしゃがみこんでしまった。
「いま119番かけるから」
「やめてくれ。どうせ、来週入院するんだから」
「え?」
「終電なくなるぞ」
「そんなこといいけど、ね、本当に平気なの?」
「少し待ってれば治るって」
由紀はネットカフェで夜を明かすつもりでいたが、春樹をこのまま置き去りにする気になれなかった。
目を開けられないほどの激痛でずっと脇腹を手で押さえながら抱え込んでいる春樹だったが、しばらくすると嘘のように痛みがぴたっと止まった。そして目を開けると、真っ黒に日焼けした女の顔が目の前にあった。
「平気?」
「やっと治ったみたいだ」
ふーっと息を吐き出した春樹は立ち上がり、ビールでも飲みに行こうと女を誘った。
「お腹痛かったのに、大丈夫?」
「平気だって」
そういいながら煙草をふかす春樹だった。
長田由紀は韮崎の出身だが、地元の山梨の大学を卒業すると東京で就職した。IT関連の企業に就職したが3年後に倒産の憂き目に遭い、今は派遣の仕事をしながら週に2回、夜はキャバクラでアルバイトもしている。
アパートの家賃は5万円ほどだが山を登るのが生き甲斐で、日本各地だけでなくニュージーランドやカナダにまで足を伸ばすこともあり、とにかく稼がなければという毎日だった。
幸いなことに派遣といっても使い捨てにされるような誰でもできるといった仕事ではなく、中国語の通訳と貿易事務をこなしているので、週3日だけでも1ヶ月の収入は20万を越える。それにキャバクラのを併せると、多い月には35万ほどになるときがあった。それでも、それなりに服を自腹で買ったりするので、いつもぎりぎりの生活費だった。
「あたしもいつかはチョモランマに行きたいから貯金してるけど、なかなか貯まらないし。こんなふうに焼肉食べるなんて何ヶ月ぶりだわ」
「へー。山女だったのか。だから俺みたいなのも、ザイルでつないで見殺しにしなかったんだ」
「ザイルなんて知ってるの?」
「アンザイレンっていう映画見たことあるんでね」
「あれはよかったよね。見てて涙出てきたし」
春樹はこれまで見てきた女性と違う長田由紀に新鮮さを感じていた。
「いつもなら、これからホテルに誘うところだけど、あんたにはそんなことできないな」
「なにいってんだか。それより、入院するってどういうこと?さっきの腹痛が原因?」
胆嚢癌であることを話した春樹は、タクシーで帰るように1万円札を彼女に渡した。
「なによ、これ」
「命の恩人みたいなもんだし。これで帰れば。俺は歩いて帰れるから」
「いいよ、お金なんて。それより、癌なんて今は怖い病気じゃないから心配しないほうがいいわよ。お見舞いに行くね」
2人は携帯電話の番号を教えあうと店を出た。
夜更けの街でも人はあっちこっちにいるし、コンビニやファーストフードの24時間営業の店があっちこっちにあった。
「明日は奥多摩へ行くんだ。あそこで始発待つことにするから。あなたも元気でね。電話待ってるから」
2 春爛漫か?菜種梅雨か?
春樹の手術が無事に終わった。
懸念されていた肝臓などへの転移もなく、由乃はほっと胸をなでおろした。だが、別れた夫から借り入れた50万のことが、すぐに頭をよぎっていた。
由乃の60過ぎの老齢の身では、今やっているビル掃除のパートぐらいしか雇ってもらえるところはないだろう。
そんな思いを顔には出さず、春樹を抱きかかえるように上半身を起こした。
「まだ痛むかい?」
「きりきりする」
「そうだろうね。無理しないでいいから、しばらくは。でも、できるだけ歩いたほうがいいって、先生いってたよ」
「煙草でも吸ってくるか」
ベッドから上体を起こすときは辛いが、立ち上がればなんとか歩けるし、気分もいい春樹だった。
外に出ると青空が大きく広がり、富士山が見えている。
山か・・・。あの女はどうしてるんだろう?
由紀は冬の八ヶ岳の写真を撮るため野辺山にいた。
車のドアを開けるにも寒風が吹きつけ、ようやく外に出れば吹き飛ばされそうになる。ゆっくりした足取りで歩き出した。飯盛山の頂上は遮るものがなく、八ヶ岳連邦をはじめとした山並みが広がっていた。
そんな景色を何枚も撮り終えると、テルモスの熱いシェルパティーを飲んだ。
退院したら俺も山に行くなんていってたけど、手術は無事成功したんだろうか?
春樹から手術の前日に電話があったことを思い出していた。
いきがかり上知り合っただけの男に深入りする気はないが、見舞いに行くといった以上行かなければと思う由紀だった。
野辺山から戻った2日後、由紀はカットフルーツの盛り合わせを手に春樹を見舞った。
「元気そうね」
「お、来てくれたんだ」
「約束したしね」
「なーんだ。俺のこと好きだから来てくれたんじゃないのか」
「しょってるわね」
「あー。体力戻ったらザックもしょうぞ。槍ヶ岳に登ってみたいんだ」
春樹が本気で山に行きたいとは思ってもいなかった由紀は彼に聞き返した。
「最低でも2日かかるのよ。そこら辺にハイキングへ行くのとは違うし、それだけの覚悟あるの?」
「知ってるって。ほら」
春樹は槍ヶ岳のガイドブックを由紀に見せた。
「へー。本気なんだ。じゃ、退院したらとりあえず雲取でも行ってみる?東京都最高峰の山で2000mあるわよ」
「いいね。元はマラソンやってたし、2000mなんて楽勝だって」
そんなところに由乃が入ってきた。
由乃は美人で品のある由紀が、なぜ春樹と知り合ったかを知りたかったが、初対面の彼女に聞くわけにもいかなかった。
「お見舞い有難うございます。こんな息子ですが、宜しくお願いします。春樹。明日退院だって」
「そうか・・・」
由紀と知り合った晩に由乃からせびった残りの金7万円はあるが、それではとうてい入院費用には足りないだろう。
そんな不安が急に現実のものとなって春樹を襲った。
「じゃ、トレーニングしてね。行けるようになったら電話ちょうだい。待ってるわ。じゃ、お邪魔しました。お大事に」
由紀はそういって病室を出た。
「いい感じの女性だね。何やってる人だい?」
「そんなのどうだっていいよ。それより、金どうかなったのか?」
「あんたがそんな心配しなくたっていいの。とにかく元気になったら、今度こそ真面目にやってくれればそれでいいから」
春樹が退院して2ヵ月後は花見時だった。
春樹は元来が真面目だったこともあり、今回の入院で母親の由乃にすっかり苦労をかけたこともあったのか、すぐに仕事をしだした。本業の塗装工として、しっかりしたところに就職したのだ。
「これは少ないけど今月分だ。親父から借りたんだろ。返してくればいい」
「知ってたのかい」
「お袋の実家じゃ俺は鼻つまみもんだし、金を貸してくれるといったら親父しかいないだろ」
「あんたがしっかりこのまま働いてくれれば、実家のほうだって辛くいわないって。じゃ、これはお父さんに返しとくね」
受け取ろうとする由乃の手は皺だらけの上、加齢に伴う染みや斑点があちこちにあった。
「痩せたなぁ」
「え?」
「なんでもない。明日は休みだし、飯は外で食う」
春樹はそういうと外に出て行った。
由乃は今朝春樹の弁当を作った残り物で遅い夕食をとり始めた。
夜桜の花見でにぎわう上野公園から浅草に行った春樹は、チャットで知り合った潤という女子大生と一緒だった。その彼女とは今日が3回目の逢瀬だった。
「あたし、すき焼きがいいな」
春樹にしても昼から何も口に入れてなかったし、肉を食べたいと思っていたところだった。1人前7千円のコースを頼むと霜降りの美味そうな肉が舌の上でとろけた。
潤は美味しいといいながらビールをよく飲む。
「今日は帰らなくていいんだろ?」
「えー?」
「その顔はいいって顔だな」
「そうかな?」
由乃が夕食をとり終え風呂から上がると眩暈で倒れた。
元々血圧が低く、そこにもってきて最近痩せたせいか。
彼女は起き上がることもできずに意識を失ってしまった。
何ヶ月ぶりかに抱いた女は春樹がいやになるほど肌を押し付けてくるが、彼はもう精力を使い果たしていた。
春樹を睡魔が襲うが、家に帰ろうと思った。
「今度は温泉でも行ってゆっくりしようか」
「うん。あたしたち肌合うみたいだし」
まだ高校生のような潤が、ときどき春樹をドキッとさせることをいう。
「大学じゃコンパばっかりやってんだろ。男遊びばかりしてないで、少しは勉強もしろよ」
「今は授業ないし。でも、来年は就職だから頑張るよ」
「そっか。じゃ、別れのキスだ」
潤は自ら自分の舌を春樹の舌に絡めた。
春樹の携帯電話が着信音を響かせた。彼は母からだと知ると、そのままキスを続け電話には出なかった。
春樹が自宅に戻ると、由乃が浴衣姿で畳に倒れていた。
「どうしたんだよ?」
どこか具合でも悪いのかと気遣いながらも、春樹の口調はぶっきらぼうだった。
「頭痛いから薬買って来てくれないか」
なんとか上体を起こしていう由乃。
「日曜なのに薬局なんか開いてないだろ」
「ドラッグストアやってないのかね」
「まだ8時なのにそんなのやってないって」
「後でいいから買って来ておくれよ」
春樹は由乃を布団に寝かせ自分の部屋に行くとビールを飲んだ。そして携帯で撮った画像をパソコンに転送した。モニターには潤のあられもない肢体が映り、それをにやけながら見てはビールを飲んだ。そうして時間をつぶし10時前にドラッグストアに行き頭痛薬を買って来た。それを由乃の部屋に持って行ったが彼女からの返事がなかった。
春樹はもしかしたら由乃が脳梗塞にでもなったかと思い、救急車を呼んだ。
由紀は春樹が真面目にトレーニングしてるか電話をかけると、彼の母親が脳血栓で入院したことを知らされた。幸いにも症状は軽いものの、山どころではないといった感じだった。
春樹に兄弟はなく、母の看病を自分でしなければならないと思うと先が思いやられた。それに就職したばかりで仕事を休むのは気が引けた。
「春樹。お母さんの妹の美咲知ってるだろう」
「知ってるけど、あの叔母さんがなんだよ」
「美咲に電話して、来るようにいっておくれ」
春樹がしぶしぶ美咲に電話で事情を話すと、彼は散々小言をいわれた。だが、そのおかげで看病からは解放されそうだった。
由乃の血栓は薬で徐々に溶かされていったが、退院にはまだ日にちがかかりそうだった。
春樹は1日おきに病室を訪ねるものの、由乃とこれといった話もあまりせずに帰ることが多かった。
「男っていうのは何でああ無愛想なのかしらね。私に挨拶のひとつもしないし」
「済まないね。美咲には迷惑ばかりかけて」
「うーん。姉さんに文句いうつもりなんてないのよ。でも、春樹のああいうのが許せないだけ」
「あれだって、好きでああなった訳じゃないのよ。昔は素直だったの、あんただって知ってるでしょう」
高校進学で春樹の人生は変わったようだ。
その原因は春樹自身が何もいわないので、母親である由乃さえも本当のところは知らない。ただ、別れた夫が勧める進学校に無理やり入れられたのが嫌だったことをそれとなく感じていた。その証拠に半年も待たずに、春樹は自主退学してしまった。それでも夫が高校にも行かないでどうするんだと毎日叱責し、それで彼は翌年違うところに進学したが、それも2年で退学になってしまった。
高卒の夫は学歴コンプレックスが強かったのか、春樹には一流の高校大学に行ってほしかったようだが、息子の春樹はそれを頑として受け付けなかった。
春樹は小さいころから絵心があり、本当は美術系の学校に行きたかった。
それが絵なんかで人生やって行けるかという、にべもない言葉に猛反発した。それでも高校に行かなければ美大に入れないとなれば、しかたなく進学校に入学したが、明けても暮れても偏差値がどうのこうのという教師や同級生に我慢できなかった。そして、同級の女性と問題を起こして退学になってしまった。
春樹が潤の電話で駆けつけた先はイラストの展示会場だった。
「凄いなー」
「サークルの仲間でお金出し合ってさ、1年に1回はやってるんだ」
前衛的なものからアニメ系までいろんな作品があるが、春樹が好きなのはイラストというより実写に近い精密画だった。
「いつになるか分からないけど、俺も描いてみるかな、久しぶりに」
「描きなよ。描いたら見せて」
「潤のヌードでも描くか?」
「やーだ」
2人は展示会場を出てホテルのレストランに行った。
「最近チャットに来てないけど、何やってんの?」
「お袋が入院してて見舞いに行ったりとか、時間ないんだ。今日はたまたま休みになったけど」
「大変じゃない。あたしが夕飯つくりに行こうか?」
「いやー。家に女連れ込んだなんて近所に知れたら、お袋が入院してるっていうのに何考えてるんだっていわれるのが落ちだし」
「そうか・・・。じゃ、この後にいいことしようね」
意味ありげに含み笑いする潤の顔はハーフのように彫が深くて小さい。
胸元が大きく開いたティーシャツを盛り上げているバストはボリュームがあり、誰もが彼女とすれ違いざまに目をやるほどだ。
そんな潤の身体をこれから抱くのかと思うと、それだけで春樹の男心は燃え上がってきた。
ランチタイムが終わるというのでウエィトレスがラストオーダーを聞きに来た。
「あたしはもうお腹いっぱい」
「水割り。それとダブルルームひとつね」
「は?」
「ダブルだよ」
「水割りのダブルですね」
「水割りはシングルで、部屋がダブル」
ようやく洒落の分かったウエィトレスが春樹を見ながらいった。
「ここではそのようなご注文はお受けできませんので、フロントへ行っていただけますか。水割りのシングルおひとつでよろしいですね」
「はい。それでいいです」
潤が春樹の代わりにいった。
「やーね。あの人、これからあたしたちがエッチするんだっていう顔で見てたじゃない」
「しないの?」
「してよー」
春樹はベッドで高校時代のことを振り返りながら潤に話している。
「俺、高校の3年間で何やってんだろうって、最近よく思うんだ」
「どうして?」
「友達もできなかったし、2回も中退して馬っ鹿じゃなかろうかってね」
「卒業しなかったの?」
「当然。好きでもないこと勉強してもしょうがないだろ。でも、2回目の高校のときは結構のんびりしてて面白かったな。私立の全寮制だったけど、とんでもない田舎でさ。近くに山や川があったりで、ちょっと可愛い子と授業抜け出して土手で寝転んだりしたりね」
「いけないんだ。不良じゃん」
「不順異性交遊っていうんじゃないか」
「やっちゃったの?その子と」
「やったね。それで退学になったし。親父には勘当だっていわれて参ったよ」
「悪い子だ」
「何いってんだよ。あんな気持ちのいいことして、どこが悪いんだよ。でも、あれで俺の人生変わったなーって、今思うんだ。退学してから絵も描く気になれなくて、仕事もしないでぶらぶらするしきゃなくて。それが元で親は離婚したし」
「そうなんだ・・・」
「お袋にしてみたら慰謝料も貰わないで、俺のこと面倒見ながら働きに出て大変だろうなって思ったよ」
そんなことを潤にいいながら、このところの春樹は由乃の見舞いも疎かにしていた。
「あれから、お袋に迷惑かけっぱなしなんだ。でも、最低でも高卒じゃないとまともな仕事に就けなかった。それなら職人で稼ごうって思ったんだ。でも、でっかい現場で朝早くから朝礼やったりとかって、俺の柄じゃなくてさ。そこらの家の塗り替えとかしたくて、あっちこっちのペンキ屋行ったよ」
最近の一般住宅は新建材が多用され、ペンキ屋の仕事が減っている。さらに悪質な業者が横行し、春樹が行っていたペンキ屋はことごとく暇になっていった。
その結果、春樹は1ヶ月のうち半月は仕事に行かないということが多かった。そういう悪循環で彼は次第に仕事をする気になれなくなり、朝から酒を飲むようになった。それでも、去年は塗装技能士1級の資格を取っていた。
そんなことを、春樹は潤の乳首を玩びながら話した。
「大変なんだねー」
「遊んでないで仕事に行けって、よくいわれたよ」
「お母さんから?」
「いや。家に電話かかってくるけど、お袋がいないから俺が出るだろ。そうすると親戚の叔母さんとか親父とかがね」
「そうか・・・。大人なんだからそんなこと分かりそうなのにね」
「分かってても、親父がいないのに、お前が母親を働かして自分は遊んでてどうすんだって。そういわれりゃ確かだけど・・・。皆、俺が悪いんだって思ってるんだろ。だから、そういう奴らの顔も見たくないし、話もしないな」
「だったら、これからは仕事のあるところに行けばいいじゃん」
「今はなんとかあるけど・・・」
先のことなど考えたくなかった。
今はそれより、目の前にいる潤という女にのめりこんでいたい春樹だった。
外はしとしと雨が降り出しているようだった。
桜も今夜が見納めかもしれない激しい降り方に変わったのは、春樹と潤がホテルを出た直後だった。
3 逃げた山の女神の行方
由乃は後遺症もなく普段の生活に戻ることができた。
病院にいる時はいろんなことを思い悩んでいたが、仕事をし始めるとそんなことでくよくよする暇もなかった。
「よかったねー。村井さんがいないと、私たちも淋しくて」
「有難うございます。休んだ分取り戻さないと」
「無理しないでいいのよ。仕事は私たちがやるから、適当にやってくれればいいの。管理人さんが村井さんがいるだけでいいっていってくれてるし」
由乃は負けず嫌いで男勝りの性分だった。それは仕事だけでなくあらゆる面で現れるが、普段は周りの人間と協調している。
休日には仕事仲間と昼食を食べに行くことも、お互いの家に行き来することもある。誰かが具合が悪いと聞けば、仕事帰りに見舞いに行ったりする人情家でもあった。
そういう由乃だったから、彼女が倒れたときは毎日のように見舞い客が来た。
その1人が目の前で茶を淹れている瀧子という同僚だった。
「今日は2人だけの快気祝いよ」
瀧子は皆が帰った後そういった。
「それはどうも」
2人は瀧子がたまに行く店に行った。
すべてが個室の懐石料理屋で、小さなせせらぎを石畳で渡り三和土に上がってから部屋に入るようになっていた。雪見障子を開ければ書院造のような部屋で、海霧に煙る小島の掛け軸は五月雨の雰囲気を醸し出している。漆黒のようなテーブルは螺鈿が施してある。それに見劣りしない刺繍をあしらった座椅子と脇息。
「瀧子さん。こんなお店によく来るの?」
由乃は夫と何回かこういう懐石料理屋に行ったことはあるが、別れてからというものは外食といえばファミリーレストランぐらいのものだった。
「たまにですよ。こういうところで贅沢するより、私は温泉のが好きだし。でも、今日は村井さんとゆっくり話したいと思って」
出される料理は見栄えも味もすこぶるつきのものばかりで、枝豆の冷静スープは甘みの中にもさっぱりした味わい。アイナメとキスに時鮭の刺身は口にしたことのない美味さだし、新じゃがとアスパラガスは旬の味わい深いものだ。金目鯛はバターでソテーしてるがかりっとした触感はさっぱりとした口当たりで、単なる塩焼きや煮付けでは味わえないものだった。そういった料理の最後は枇杷のデザートで締めくくられた。
「こんなに美味しく食事したことあったかしら」
夫と別れてからの由乃は働きづめで、食事といえばあり合わせのもので済ますのが常だった。
「ご馳走様。それより、何か話があるんじゃない」
「実はね、私、宝くじ当たったのよ。それも、4億円」
由乃は信じられないといった顔で、茶をすする瀧子を見た。
瀧子はなんでもないといった感じで湯飲みを置き、煙草を吸い出した。
「こんなこと話すのは村井さんだけで、夫にもいってないのよ」
「それなのに、どうして私に?」
瀧子はタクシー運転手の夫の浮気癖のことを、しょっちゅう由乃に愚痴をこぼしていた。
由乃の夫は浮気こそしなかったが暴力を振るうことが度々あったし、そういうことで夫に恵まれなかったのは瀧子と共通していた。それで彼女の話を、自分のことのように親身になって聞いてやったことが多々あった。
「あの人は60だっていうのに、娘よりも若い女に入れあげて生活費もまともにくれないからこうしてパートの仕事してるんだけど、もう、これからはゆっくりしたいの。離婚するっていってやったわ。でも、宝くじに当たったことはいってないのね。それで、これは村井さんが買ったってことにしてほしいの。別れるときにごたごたするから」
瀧子は離婚間際に買った宝くじの賞金を夫と折半にしなければならないことを見越し、由乃にそういうのだった。
由乃は瀧子の夫に何回か会ったことがあるが、いかにも女癖の悪そうな感じを持っていたこともあり、彼女の申し出を受け入れることにした。
「いいわ。でも、仕事をやめてどうするの?何もしないで遊んでるっていうのも、辛くない?」
「そこなんだけど、村井さんと温泉めぐりしたいのよ。それでブログなんかやったりすれば、結構楽しくて時間たつのもあっという間だと思うし」
ブログがどんなものか。パソコンをまったく知らない由乃に、ノートパソコンを見せながら詳しく説明する瀧子だった。それには由乃も目を丸くして驚くばかりだった。
「凄いわねー」
「でしょう。村井さんも何かやればいいのよ。ブログは面白いし、惚け防止にもなるし」
「私は瀧子さんみたいに器用じゃないし」
瀧子は由乃より5歳下でまだ時代の流れに乗れるが、由乃にしたらパソコンなどは無用の長物だと思っている。見ず知らずの相手とメール交換など、不気味だとさえ感じているのだ。
「とにかく、温泉に付き合ってほしいのよ」
「そういわれても、私はこの仕事を辞める気はないし・・・」
身体を動かさずにじっとしていられる性分ではないし、ましてや他人の金で遊ぶなどということは、由乃にはできかねることだった。それに、春樹の仕事も順調で、以前のように仕事を投げ出す様子もなさそうなので、これといった不満もなかった。
「来週は?新緑のいいところがあるのよ。そこは1人じゃ泊まれないし、なんとかお願い」
瀧子の哀願するような誘いにしかたなく付き合うことを約束したが、食事代は割り勘で払う由乃だった。
春樹は仕事を終えるといつものようにジョギングで帰宅する。
贅肉の落ちた身体は引き締まり、手足には血管が浮き上がるほど筋肉もついてきた。それはジョギングだけでなく腹筋や腕立て伏せなどもしているからで、食事も美味く感じるようになっていた。酒をひかえているのが何よりなのだろう。
その筋肉質の身体で潤の華奢な身体を責めるように抱き、彼女を快楽の底に何度も落とした。
そして今は、登山道の片隅で由紀と一緒に奥多摩湖を見下ろしていた。
「これから徐々に勾配を稼ぐようになるの」
ジョギングをやっているせいか、肺活量も上がってきている春樹の動悸は乱れてはいない。景色を眺める余裕もあるし、街で見る時とは違う由紀の姿に惚れ直している。
彼は、汗でうっすらと透けてる由紀の胸を舐めまわすように見ているのだ。
「煙草がうめー」
振り返った由紀に気取られまいと、大袈裟にいった。
「息切れするわよ」
「ヘッチャラだね」
初めての登山とは思えない軽やかな足取りで七つ石山迄難なくついてくる春樹に、これなら2時には雲取に着くと思う由紀だった。
「あそこが頂上よ」
そういわれた春樹はゆるい登り坂を駆け上がって行った。
その後姿は、獣が獲物をを見つけて走って行くように見えた。
由紀は走りこそしなかったが急ぎ足で春樹の後を追った。
「子供みたいね」
「ちぇっ。浅間は見えんのに北は駄目だな」
「この時期だとヘイズが出る前じゃないと、北アルプスは無理かもね」
「ヘイズって?」
「大気中の塵。それが遠くのものを見にくくさせるの」
「いろんなこと知ってるねー」
由紀は避難小屋でザックの荷物を整理すると外で料理を始めた。
「あなたは何を持ってきたの?」
「レトルトとフリーズドライ。あとはビールとつまみ」
一泊の山行ならそれで十分だろう。
由紀は冷麦をつくり、ビールを飲んでいる春樹に振舞った。
「ぬるいけど、うめー」
「山で水は貴重だから、おうちでつくるようにふんだんに水は使えないからね。でも、これぐらいなら上等よね」
「上等上等上等」
春樹は意味もなく繰り返していう。
遅い昼食を終えても、夜になる迄はかなりの時間があった。
その間春樹は何かと由紀に話しかけるが、彼女は汚い言葉遣いをする彼を鬱陶しく思い、あまり話す気になれなかった。
避難小屋にいる登山者は、場違いな奴が闖入してるといった目で、そんな春樹には冷ややかだった。
「他の人もいるんだし、少しは静かにしたら」
「つめてーなー」
夕食を終えると星を見に小屋を出る者が多い。
由紀はビールを飲んでいる春樹に声をかけることもなく、1人で外に行った。
空には満天の星が輝き、手に取れる近さに見えた。
春樹という男と一緒でなければロマンチックな星空だと感じただろうが、今はそう思えない。何であんな人間と山に来たのかという後悔のが強いからだ。
いきがかり上声をかけて具合の悪い彼を介抱した。癌だというので見舞いにも行った。そして槍ヶ岳に登りたいというから、それなら試しに雲取に行ってみようとなった。
電車の中では足を投げ出したり、大声で話しかけてきた。挙句に携帯電話ではげらげら笑いながら会話もしていた。山小屋でも彼のその非常識さは遺憾なく発揮され、抱き合って寝ようと、周りに聞こえるようにいってきた。
そんな春樹とは1秒たりとも一緒にいる気になれない由紀は小屋に戻ると、寝ている彼に気付かれないように荷物をまとめた。皆に一礼をして外に出た。
翌朝起きた春樹は由紀のいないことに気付いた。
由紀のザックがないことを知ると置き去りにされたと分かり、彼女に携帯電話をかけるが圏外で通じなかった。そんな春気は飯を食うどころかビール片手に外に出た。
「これが御来光って奴か」
5月下旬だが山の朝は夏のように早い。
雲海から顔を出した朝日はあっという間に高く昇って行く。それと同時に闇から赤く色づいたかと思うとどんどん変化していき、いいようのないドラマティックなものだった。
「これが山の魅力って奴だな」
春樹はビールをぐいっとひと飲みすると、短くなった煙草を足で踏み躙った。
「あんた、山は初めてかい?」
初老の男はもみくちゃになった煙草を拾い上げ、それを春樹に受け取らせながらいった。
「それが」
「山はどうだい?いいかい?」
「まーね」
「そうかい。それはよかった。彼女は逃げても、山は逃げないからな」
春樹はむっとし、受け取った吸殻を再び投げ捨てた。
由紀は雲取山荘で泊まろうかと思ったが、星空の下を飛龍山に向けて歩き通した。日が昇り始めた時は雁峠で、絵に描いたような富士山が見える。その富士山を見ながら広瀬湖畔の民宿に向かった。
顔馴染みの由紀を見た女将は風呂を沸かして彼女を歓待した。
「温くなかった?」
「ちょうどよかったです」
「それはそれは。さ、どうぞ」
「ビール飲みたいんです。そのあと少し寝てもいいですか?」
「ゆっくりしていけばいいわよ」
女将は酒肴に山菜とハムサラダに鱒の塩焼きを出した。
「美味しい。何かもやもやしてたのがいっきに吹っ切れました」
「何があったか知らないけど、人生色々あるわね・・・」
女将は微笑むようにいった。
「そういえば、こないだめずらしく梶山さんが見えたわよ」
一瞬間をおいて、由紀はグラスを傾けた。
「何かいってました?」
「由紀さん来る?って聞いてたわ。連絡してあげたら」
由紀はそれには返事をせず、ビールをもう1本といった。
梶山三郎は由紀の恋人だった。
お互い山が好きでいずれは結婚するはずだったが、今は疎遠になっている。
その梶山とは広瀬ダム奥の東沢渓谷でアイスクライミングをしたり、甲武信岳に登ったりした際、2人はこの民宿を足場にしていたのだ。
「梶山さん。あなたと一緒になりたいって」
女将にそう聞かされても、由紀にはどうすることもできない。彼が目の前にいたなら、思いっきり抱きついたかも知れないのだが・・・。
「人生って、誰かがそばにいないと面白くないわよ」
32歳の由紀はこのさきも山にすべてをかけようとは思ってもいないが、かといって結婚する気もあまりなかった。思い立ったときに好きな山に行ける今の環境のままで、もう少しいたいと思っているのだ。
だがキャバクラやスナックでのアルバイトをするにも年齢的な限界だと気付いていたし、派遣での高収入だっていつまで続くか保証はなかった。
そういう意味で結婚は、いい逃げ場とも思えた。
梶山と別れてから2年間。
最近の由紀はそういうふうに考えていた。
好きな山には登れるが、何か満たされないものが常にあった。それが梶山の存在だということはいうまでもないが、1人でいる身軽さと秤にかけると、結婚には踏み切れないでいた。
4 それぞれの夏
山から下りた春樹はノートパソコンを持参して、潤に撮影した山の写真を見せていた。
潤は春樹のブログの投稿記事をまじまじと見ている。
そんな彼女の背後から乳房をもみしだく春樹。
「もぅ。おいたしないの」
「そんなこというと、他の女のところに行っちゃうぞ」
相変わらず強引な春樹は潤のタンクトップを乱暴に脱がし、ブラジャーをまくりあげた。潤の小さな乳首を舐めながら、何故か由紀の顔を思い出す春樹だった。
潤にとっての春樹は金離れのいい年上の男で、子供っぽいところが憎めないセックスフレンドでもあった。内面的に好きになれるかと聞かれれば、なんともいえないのが本音だ。ただ、一緒にいて退屈しないし、何か新しいことを彼から発見できるのが、唯一付き合ってる理由かも知れない。
「ブログ、だいぶ前からやってるんだね」
「暇なときにちょっとやりだしたら、俺みたいなのが結構見に来てくれるしな」
春樹のブログの記事内容は世間に対する不平不満をだらだらつづっているのがほとんどだが、それに共感する者が多いのか、コメントがかなり寄せられている。どれもが2チャンネルなどの掲示板でよく見受けられる意味不明な絵文字を多用し、まともな文法など無視したものだった。
それでも春樹はアクセスが増えるに連れ、多い日には3回も投稿したり、彼自身そんなコメントに励まされているようだった。
特に今回は山へ行ってきたことで、